エンピツのバックアップ用の日記です。
エンピツが落ちたり、もしサービスが終了しても慌てないように記録していきます。
以前から指摘していることが、全然直っていない。
直す気が全くないんだと、今さらながらに思い知った。
指摘したり手直ししたりするだけ私がバカを見る。
私が何を指摘しようがアドバイスしようが、全く生かす気がないとしか思えない。
調子の良い「ありがとう」「助かった」「さすがね~」「わかった、気をつける」という言葉は上辺だけ。
毎回感じる私の虚しさは、一生理解できないんでしょうね。
本当に、あの人と接するとイライラがMAXになる。
最近、他にこのイライラをもっていく場所がなくて、ここに吐いて、どうにか心の均衡を保つようになってしまった。
もっと冷静に、ちゃんと自分の心と向き合ったことを書いていきたいのに。
ああ、そうか。
あの人からは、「誠意」が感じられないんだ。
だから、感謝の言葉が虚しく感じる。
本人は、感謝しているつもりでいるのだろう。けれど、その態度からは「“ありがとう”と言葉だけで感謝しておけばいい」と思っているようにしか見えない。
本気で感謝しているなら、態度にも現れるものではないのだろうか。
私の言葉を真摯に受け止めているなら、例え結果として出来ていなくとも、改善しようと努力をするものではないのだろうか。
それが一切見えないから、感謝の言葉は虚しく響いてしまうのだろう。
悩んで苦しんで、一番辛かった時に頼みもしないのに押しかけてきて、心ない言葉を投げつけられた。
今もその時のことを思い出すと古傷をえぐられるような痛みが走る。
自覚のない悪意、独りよがりな善意。
いつもそう。
つい先日も、同じようなことをされた。
それを指摘したところで、「終わったことを…」と一蹴されるだけ。
あなたにとっては終わったことでも、私にとっては今でも血を流す“傷”なのですけれどね。
つけられた傷は一生消えない。
他人なら縁を切れるのに。
「あなたが頼りなのよ」
と母に言われる度にゾッとする。
私はあなたの夫じゃありません。
私を亡き父の代わりにするのはやめてください。
母の価値観と私の価値観はかなり違う。
母は私の価値観は理解できない。
理解できないのなら、それを認めてくれれば良いのだが、母の場合は自分の価値観に当て嵌めて無理矢理私の言動を理解しようとするので、全くトンチンカンな解釈になる。
その解釈を元に様々に私に“アドバイス”しようとするので、しばしば閉口するし、嫌悪感が募る。
まるで私を自分に取り込もうとしているように感じてしまうからだ。
しかし、今はもう“アドバイス”程度になったからマシだ。
子供の頃は“アドバイス”ではなく“命令”であったり“押し付け”であったり、ほとんど見当外れな“心配の押し売り”だった。
どこの親もそんなもんなんだろうか。
私の母は、
「静月さんらしくなったわね」
とよく言う。
言われる度に嫌な気分になる。
例えば。
キッチンがきれいにかたづいていると「私らしい」、
流しに洗い物が溜まっていると「私らしくない」。
でも、流しに洗い物を溜めてしまうのも、きれいに片づけているのも、どっちも同じ私。
きれいにしていると私らしくて、きれいにできないでいると私らしくないと言われる度に、きれいにできないでいる時の“私”の存在が全否定されているようで腹が立つ。
キッチンがきれいだろうが汚れていようが、私は私。
“私”を、そんな“条件”で決めないでよ。
きれいにできずにいるのには、理由がある。
ただそれだけで、私らしいも私らしくないも、ない。
たぶん、母にとっては、そんな理由はどうでもいいことなのだろう。
「自分が理想とする娘(=静月)の姿」や「自分が理解している(思い込んでいる)娘の姿」が「静月らしい」なのだ。
それが透けて見えるから、嫌な気分になる。