エンピツのバックアップ用の日記です。
エンピツが落ちたり、もしサービスが終了しても慌てないように記録していきます。
私の母は、
「静月さんらしくなったわね」
とよく言う。
言われる度に嫌な気分になる。
例えば。
キッチンがきれいにかたづいていると「私らしい」、
流しに洗い物が溜まっていると「私らしくない」。
でも、流しに洗い物を溜めてしまうのも、きれいに片づけているのも、どっちも同じ私。
きれいにしていると私らしくて、きれいにできないでいると私らしくないと言われる度に、きれいにできないでいる時の“私”の存在が全否定されているようで腹が立つ。
キッチンがきれいだろうが汚れていようが、私は私。
“私”を、そんな“条件”で決めないでよ。
きれいにできずにいるのには、理由がある。
ただそれだけで、私らしいも私らしくないも、ない。
たぶん、母にとっては、そんな理由はどうでもいいことなのだろう。
「自分が理想とする娘(=静月)の姿」や「自分が理解している(思い込んでいる)娘の姿」が「静月らしい」なのだ。
それが透けて見えるから、嫌な気分になる。
はっきりしない人に少々イラつく。
でも、私は相手の出方次第で動くつもりだから、「マテ」の姿勢でいる。
縁を切るつもりなら、それもヨシ。
表面だけ取り繕った関係は疲れるだけだから、そんなのは仕事等切るに切れない人間関係だけで充分。
不満を腹に収めて何気ない笑顔で接しておいて、裏で陰口言うような友情は要らない。
信じるべきか、信じざるべきか。
それが問題だ。
人は変わっていくし、時には裏切るものだと思う。
よく、「今まで信じてきた人を疑う自分が嫌だ」と自己嫌悪に陥る人もいるが、私はそんな風には思わない。
問題が起こってしまった以上は、様々なケースを考えておくべきだと思うだけだ。
何より冷静に判断すべきだが、やはりどうしても主観が伴うのはしかたがない。
信じて裏切られても「それでもいいか」と思えるかどうか。
そう思えないなら、裏切られても大丈夫なように対策をすべきだろう。
今私が直面している問題においては、最悪のケースを考えて準備をすることは、実はたやすい。(多少の労力と時間と費用はかかるが)
裏切りがなければ、準備は無駄になるが、掛け捨ての保険だとでも思えば安いものだ。
言ってみれば、バックアップを取っておくようなもの。
もっとも、これでは本当には“裏切り”とは呼べないのかもしれない。
簡単に推測できるようなものは、既に“予定の範疇”であって、思ってもみなかった災厄ではないのだから。
「めんどくさい。もういいや」とつい思う。
心にのしかかる重石をどかすには、「捨てる」「諦める」「他へ移す」のが手っ取り早い。
でも、それは逃げだ。
逃げれば解決したように見えて、また同じような問題が発生する。
逃げ続ける限り、永遠に、死ぬまで。
とはいえ、やっぱり厄介な問題と向き合うのはメンドクサイんだよね。
どーしてこう人ってのは面倒なんだ!
そして、どーしてこう私はめんどくさがりなんだ。(苦笑)
割れてしまったお皿が決して元に戻らないように、ヒビの入った人間関係の修復も難しい。
ある人との関係が悪化して半年が経った。
おそらくもう2度と前のような良好な関係には戻れないし、戻りたいとも思わないから修復はほぼ不可能に近い。
「私は苦手なんだから、(それをするのは)やめてほしい」
と頼んだことへの返答が、
「えー、(それをしない)自信ないなあ。(笑)」
だった。
別に、難しいことを頼んだつもりはない。全面的にやめろと言ったわけでもない。
ただ、私の前でだけ、それをやるのは遠慮して欲しいと頼んだだけだった。
その相手とは月に1度、数時間会う程度なのだし、その短い時間にそれをしないことでその人自身が苦痛だったり不自由を感じるようなことでもなかった。
それにも関わらずこの返答だったということは、言外に、
「あなた(=私)を思いやるより、自分がやりたいようにやることを優先する」
と宣言されたも同じだと、私は受け取った。
それ以来、その人への信頼も親近感もなくなり、距離を置いている。
割れてしまったお皿は2度と元には戻らない。たとえお気に入りだったとしても、捨てるしかない。
きっと、そう遠くない時期に。